球磨川くだり
球磨川下りの原点はここに 球磨川開削
約350年前の江戸時代初期まで、人吉から八代へ行くためには、山越えか球磨川沿いの険しい道を通るしかなかった。当時の球磨川は急流の上に巨大な岩がゴロゴロと横たわり、それが舟の行き来を遮っていたのだ。
この状況を打開しようと一人の男が立ち上がる。相良藩の御用商人だった林正盛翁。彼は私財を投じて、川の瀬に横たわる大岩を取り除く一大事業に臨む。
3年の月日を重ね寛文4年(1664年)に工事は完成。以前から舟が通っていた球磨村の多武除きから八代までと合わせ、舟運の水路が確保された。
それから200年以上、球磨川の舟運は、人々の交通と物資の運搬に欠かせないものとなった。
ピンチをチャンスに転換 球磨川下り誕生
時代は流れ、日露戦争直後の明治41年6月、 八代―人吉間に鉄道が開通すると状況は一変する。
スピード・運搬量に勝る鉄道の登場で舟運は一気に衰退し、そこで働いていた人や川舟はお払い箱に。
そんな時代であった明治43年、現在の温泉町の発掘に成功した温泉旅館「翠嵐楼」の創業者・川野 廉翁は、ある日廃船同様となっていた川舟を見て、活用した観光遊覧船事業を思いつく。
その後試行錯誤を繰り返し、ついに宿泊客を乗せた遊覧船が翠嵐楼前から葦北郡白石へ向けて出発。大好評を得た。球磨川下り誕生の瞬間だった。
観光時代の流れに乗って 定期運航開始
昭和に変わるころまで、球磨川下りは旅館が宿泊客の希望する時に運航し、団体などの貸し切り舟だけであった。
しかし昭和2年、観光への関心の高まりから球磨川下りの定期船を開始。
毎週土・日に人吉―白石間に乗り合いの川下り舟が運航した。
昭和9年には人吉町(現人吉市)が、長崎、熊本、門司などの博覧会で宣伝用のフィルムを映写。その効果もあってか、客数も順調に推移する。
しかし、太平洋戦争も敗戦濃厚となった昭和19年、船頭たちも次々に戦場へ借り出され、球磨川下りも中断に追い込まれてしまった。
しのぎを削る3社の争い 黄金時代の到来
戦争中途絶えていた球磨川下りは、市内の温泉旅館組合と人吉観光課の合同事業として
昭和23年に再開。
その後両者は「球磨川下り定期船組合」を設立する。
また昭和26年には2番目の会社「球磨川下り有限会社」、昭和36年には3番目となる「有限会社人吉観光球磨川下り」が参入し、3社で競い合う形に。
戦後の経済復興と歩調を合わせて乗船客も増え続け、所有する舟の数も3社合わせて50艘以上と球磨川下り黄金時代の到来となった。
忘れてはならない過去。 転覆事故発生
ところが昭和37年7月14日、最悪の事態が発生する。
前夜の雨で増水した球磨川を、観光客を乗せてこぎ出した「球磨川下り有限会社」の舟が球磨村一勝地付近で転覆。
激流に16人が投げ出され9人が亡くなるという痛ましい事故が起きたのだ。
これは水しぶきに驚いた乗客が片側に移ったことが原因であった。また、10人の定員を上回る16人が乗船していたことも関係していたと思われる。
3社間の激しい競争が裏目に出た結果であった。補償問題や事故の影響を受けた乗客減少で「球磨川下り有限会社」は経営に行き詰まる。
翌年、人吉市のあっせんで3社が合併し「人吉観光株式会社」(現くま川下り株式会社)が誕生。再出発を目指すこととなった。
時代の波に揺られながら 再出発―現在
再出発後、相良村柳瀬―人吉間の第2コースの新設(その後廃止)や、舟の安定性を高めるために舟幅を広げ定員を10名から15名に増やすなどの改良を進め、客足は徐々に回復。
昭和50年になると九州最大の鍾乳洞「球泉洞」がオープン。
球磨川下りと鍾乳洞見学のセット観光が大当たりし、乗客もうなぎ上りに。
船着き場も今までの白石から球泉洞の下へ変更された。
球磨川下りは、その後も「球磨村渡―球泉洞(急流コース)、人吉―渡(清流コース)の新設」「川下りに花を添えたガイド嬢を人財不足のため廃止」などの紆余曲折を経て、時代の波に揺られながら現在も球磨の大河を彩っている。